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プロフィール

海上撮影家

Author:海上撮影家
1995年から上海に関わってます。
2003年に上海に事務所を移転。現在、上海751文化研究所に所属しており、日本と中国の広告撮影及び日本の雑誌の仕事が中心です。
また、751文化研究所は海外からロケで来る人達の為のスタジオ及びストロボ機材のレンタル窓口でもあります。

日本からの撮影依頼も受け付けておりますので気軽にどうぞ。
連絡先は、この中のリンクから私のHPへ入り「Contact」からメールを送る事ができます。
        海原修平 Kaihara Shuhei

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SONY PROMAVICA MVC-5000とF1GP

     
      senna1a.jpg

海外のサイトをググっていたら、偶然にも忘れかけていた懐かしいカメラに行き当たった。
ところが、日本のサイトで検索してもまったく名前が出てこない。忘れ去られたカメラになっているようだ。
それは「SONY PROMAVICA MVC-5000」という機種だ。このカメラの名前を知っている人は、報道関係のカメラマンかSONYの一部の社員か警視庁関係か米軍関係しかいない。

なぜなら、普通のカメラ屋では販売されなかったという事と、当時の一般人にとってはフィルムカメラしか知らなかった時代だからだ。日本国内では警察関係のみがユーザーだったようで、犯人などのデータを瞬時に全国に送るために使っていたようだ。
また、米軍は湾岸戦争時に偵察の為にプロマビカで撮影し画像をインターネットを使いペンタコンに送っていたようだ。(インターネットは軍事技術であり1990年の時点では、普通の人はインターネットって何?という時代だった)
続きは下のクリック↓↓

このプロマビカを簡単に説明すると、1989年に生まれたカメラで画素数は72万画素、記憶媒体は2インチのフロッピーディスク、デジタルではなくアナログ式だった為に電子スチルカメラと呼ばれていた。
2インチの小さなフロッピーディスクにファインモードで25枚の画像が記録できたと記憶している。
画像はというと、今の携帯電話のカメラよりかなり劣る画質だった。シャッターボタンもビデオのスタートボタンのような押し心地だったので、スポーツなどスピードがある撮影には使えない代物だった。

1990年の春、有志数人でF1の速報誌を立ち上げた。雑誌の名前は「F1 PRIX」
当時は、ホンダのターボ全盛時代であり日本でもF1人気が最高潮だった時である。他誌より遅れてのスタートだったので、他誌がやってない方法で始める事になった。そうでないと、勝ち目はないからだ。

その方法は、紙面をフルDTP化する事と(表紙以外)予選はフィルムで撮影し決勝はマビカ画像を電話回線で送り他誌よりも早く本を出そうという目論みだった。(他誌は、カメラマンが日本に帰ってから現像)
その時に選んだのが、89年に発売された MVC-5000というソニーのプロ用電子スチルカメラだった。

当時カメラが約90万円、ズームレンズが約100万円、モニター2セットと送受信モデム2セットと2インチフロッピーディスクを再生するプレイヤー2セットさらに専用プリンターを合わせると400万円を軽く超えていたように思う。

90年5月、ライターと私2人でモナコGPに向かった。
モナコで私が持ち込んだマビカを見て、海外のプレス達は興味を持ちながらも「またジャップが変な物をF1に持ち込んできやがった」とイヤな顔もされた。
それは、当時のマクラーレンホンダが強過ぎたのと、他のチームが真似のできないようなシステムで(F1のピットにPCを持ち込み外に大きなパラボラアンテナを2機待機させ走っているマシン状況を常に和光のホンダに送っていた)F1を戦っていたからだ。

このマビカの画像送信方法は、2インチのフロッピーを専用プレイヤーに入れ画像を選択。そのプレイヤーを専用モデムに繋ぎアナログ回線で画像を送るというシステムだった。
受ける側は、やはり同じ専用モデムを使用しモニターと睨めっこしながら1枚ずつ色調整とコントラスト調整をやりプリントアウトしなければならない。
なぜならフォトショップはあっても、マビカの画像は開けないので反射原稿で入校するしか方法がないからだ。

泊まったホテルの電話がモジュラージャックでなかった場合は、部屋の電話機をバラし必要な2本の線をワニ口クリップで挟みモデムと繋いで送信もした。
日本やアメリカ、カナダなどの電話回線システムが新しい場所同士だと一枚の画像を約60秒で送る事ができたが、当時のモナコやヨーロッパの国々では回線が古く2分以上かかる事はざらだった。

インターネットが認知され始めた頃、ソニーのマビカ事業部は一時無くなった。5年で結果がでなければ撤退するという潔い会社だからだ。
しかし、90年代前半にこのカメラを使って思った事は、未来のカメラの主流は絶対にフィルムカメラではないと確信した事だ。その後、キャノンのDCS1に始まりニコンのD1が発売されてさらに確信は深まった。

この10年でデジタルカメラは恐ろしく進歩した。
私は以前の東京事務所があった頃、自分でフィルムを現像しプリントまでやっていた。また、今もそれをやっている人も多いと思うが、最終的にプリントで見せる場合デジタルは銀塩にかなわない。

振り返れば、当時の現像済みフィルムは今も保管してあるが、当時のマビカの画像は何処かへ消えて一枚も残っていない。なので、当時のマビカで撮った画像がどんな画質だったか言葉で説明するしかない。
デジタルカメラの進歩は非常にはやいが、デジタルデータの保管方法がまったく進歩してないのが気にかかる。
後の10年でデジタルがどのように変わるのか楽しみでもあるが、銀塩がどうなるのか少し心配だ。

写真は、1990年カナダGPでの「F1 PRIX」の表紙
セナの写真は、1990年モナコGPにて撮影 EOS-1 EF300mm f2.8 ストロボ使用
 
1990年モナコGP結果は、今でも忘れる事ができない。 1位セナ 2位アレジ 3位ベルガー 
セナの走りはすばらしかった。いつも同じコースどりで走るので、他のドライバーよりファインダー越しにとらえるのは楽だったが、マシンのスピードが速くピントで苦労した。でもこのGPは、ティレルの非力なマシンでベルガーを押さえ堂々と2位に入った新人アレジが光り輝いて見えた。
「F1 PRIX」は、1994年サンマリノGPでセナが事故死した年に休刊
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